オタクにおける楽しみ方による剪定について

当然と思しきことばかり書いてきたつもりでして、今回も例に漏れず。野暮だとわかっているのですが、野暮なことほど興味が湧いてしまうものなのでしょうか。

 
つい先ほどまで中学校時代の友人と昔話に花を咲かせていまして、僕自身転勤族で広島と千葉を行ったり来たりの生活を送ってましたから、当時荒んでいたことも拍車かけあまり友人がおらず、今でも残ってくれているその数人はとても大切な存在になっています。彼らと過ごした2年余りは、バカといってはバカに失礼なほどバカな毎日だったと記憶しています。書けるものをいくつかあげると、好きな女の子のリコーダーを舐め散らかしてシコるヤツ、掃除機でシコるヤツ、情報の時間にエロサイトでシコるヤツ、京都への修学旅行で他校と喧嘩して正座し女子部屋に乗り込んで正座しエロ雑誌持ち込んでシコって正座し意図せず修行僧のような3日間を送ったヤツなどなど、頭の欠陥を疑うこともなく気づけば四面楚歌、周りが皆敵になっていたように思います。しかし、猿ほどの知恵もない当時の僕たちが不幸だったかと問われれば、社会的視点からみれば哀れではあったかもしれませんが、主観的にはとても楽しく充実した日々であったと胸を張って言えるのです。
 
このように、楽しみないしは楽しみ方、ここでいうところのバカな学生生活ないしは学生の楽しみ方とは実に自分勝手な価値観で出来てまして、例えば僕や友人らが共同生活のルールに則り青春を共有し謳歌したとしても、それもまた自分勝手なものなのです。和気藹々過ごしていたとして、それを良しとしない者がいてもなんら不思議ではありませんから。
 
屁理屈はここら辺にしておいて、また別の例え話を。
 
僕はこの頃からバイクが大好きでした。時には若さに任せハチャメチャな運転もしましたが、基本的には社会の秩序である常識に則りマナーのある運転を心掛けていました。それはとても楽しく充実した日々でした。
 
一方、僕の当時の友人にいわゆる暴走族として活動していたものが何名かいました。彼らは一般社会における社会的秩序ではなく、自分たちの中での社会的秩序に則ってそれなりに楽しんでいたのでしょう。
 
このふたつを比べると圧倒的に後者が非難されようものですが、そんなことは本人たちにとってもとうに自覚のある話ですので、今更どうこうと詰めていく気には到底なり得ません。話の焦点ですが、この二者の間に理解はあり得るのかということです。
 
冒頭で話した僕の昔話のように理性を飛ばし人間としての品性も品格もない行動をとると楽しい、というのもあながち間違いではないのかもしれませんが、ポイントはそこになく、その物事に対する心構えからして違うのでしょう。
 
バイクの例であるところの僕は、ある言い方をすれば「嗜み」として楽しんでいると言えます。趣味とあるように、趣を味わっているのです。しかし、暴走族の友人は、その暴走行為、犯罪行為に趣を感じているようにはさらさらみえず、どちらかというと「遊び」であったのだろうと思います。
 
微妙なニュアンスの違いでうまく伝わるか不安ですが、ここの違いは大きく、ツーリングサークルと暴走族は間違っても相容れることはありません。
 
アイドル現場の観客席をバスケットコートと見立てて考えるとわかりやすいのですが、「嗜み」勢は恐らくスポーツとしてのバスケットボールを楽しむでしょうし、一方「遊び」勢はあるいはバスケットボールでドッヂボールを始めるかもしれません。「嗜み」勢は体育の授業として現場に立っており、「遊び」勢は休憩時間として現場に立っていれば、そこに理解など生まれるはずもなく、お互いがお互いの自分勝手な価値観を押し付けたところで醜く不利益で不毛な争いが生まれるだけなのです。
 
しかし、このバスケットコートに求められるのはスポーツとしてのバスケットボールでして、それはアイドルという絶対的な存在がある限りほぼ揺るぎないのです。ですから当然「遊び」勢は猿並みの知恵もないバカ足りぬ脳なし軍団なわけですが、先ほどの通り話の焦点はそこではありませんので、結論として「平和のために永遠に努力する戦闘民族」のような矛盾を抱えつつ、多数であるどちらかが「楽しみ方」によってオタクを剪定し、美しい現場とやらを作り上げていくことこそ真理である、となるのです。
 
早く美しい現場にならねーかな。