卒業の消化

なんだか頑張れない一週間も終わり、また地獄の15コマを消化する日々が始まるかと思うと、毎日カルボナーラ食わされるような思いですが、時間があるとアイドルのことを考えてしまうのはオタクのサガなのでしょうか。

 
ここ最近やたらと"卒業"のふた文字を目にすることが多く、これが正しくアイドル業界の新陳代謝となっているのか、それとも単なる老化現象なのか不確かではあるんですが、業界そのものに興味のない僕のような人間にとっては星屑の中のいくつかが消えたに過ぎず、しかしスマイレージ福田花音ちゃんの卒業はなかなかにしみじみとするところがありました。
 
もう何年前になるのか自ら進んで考えたくはならないほどには時が経ってしまい、"スキちゃん"で起こった革命すらも今や何億光年も遠くに感じますが、やはり特別であることには変わりなく、となると"特別"という言葉は"好き"という感情としっかり差別化されているんだなと実感するところであり、また、僕にとっての星屑の中の一つもまた別のところでは確実に太陽であったのだろうとセンチメンタルを隠せません。
 
あえて"スマイレージの"と表記したところにも僕の過去に対する固執が表れており、まあこれは僕に限らず男とは皆女々しい生き物であろうと、35億の表向きの否定を甘んじて受け入れるのです。
 
先日、ハコイリムスメの門前亜里ちゃんの卒業発表があり、オタクはオタクなりにそのカルボナーラを消化しようと格闘してる真っ最中であろうと思います。
 
かく言う僕も消化の真っ只中でして、しかしこればっかりはウンコとして排出されるのを待つほかないわけです。
 
しかし、時の解決力に委ねるだけのオタクなどオタクの名を語るに足らず、やはり胃もたれに苦しみながらもなんとかかんとかしようとするのがオタクらしいとも思うのです。
 
亜里ちゃんの卒業に際して思い返されるのは、ハコムスは女優志望の女の子たちの集まりであるということです。となると、亜里ちゃんは1抜けしたということでしょうし、デパートの特設画廊から美術館への昇格を目指すということでしょう。
 
陥りがちなマインドの一つとして、メンバーよりオタクの方がそのアイドルという入れ物に固執することが挙げられますが、記憶をたどり彼女らのMCを思い出せば出すほどそれらは「私たちは卒業するためにアイドルをやっています」と聞こえ、これを表立って口にできることが他のアイドルと違うところなんだろうなと考えられるのです。
 
卒業後も芸能活動を続けるのか、続けるならばその芸能活動とはどのようなものか、と卒業に対するネガティヴな印象を植え付けるに十分な心配事がハコムスには無いに等しく、卒業後の未来がある程度予測できるのは大きな利点でしょう。
 
そうすると、オタクもアイドルに合わせたマインドであることが重要であろうと思うのですが、ふと「オタクするのってこんなめんどくさいっけ」と本末転倒な疑問が浮かび、ああこれも距離感の近さからの弊害の一つかと、アイドルとの人間関係としてオタクをしていたのかと頭が痛くなります。
 
これまでの話の通りなら、"手を叩いて卒業を祝う"が正解なんだろうとの予想も容易く、しかしそうもいかないところに愛という固執が見え隠れし、その対象が亜里ちゃんへのものなのか、ハコムスへのものなのか、確信の持てないままその日を迎えるのでしょう。
 
一にも二にも会えなくなるのが嫌だ、という思いがオタクの心を支配してる今、その胃のむかつきを抑える漢方薬もこの世には未だないので、ハコムスが"個人の活動が延いてはグループの"というマインドではなく、"グループとしての活動が延いては個人の"というマインドであることを念頭に、もう少し消化運動を頑張ろうと思います。