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DX劇団ハコムス観たぽーん、面白かったぽーん

視覚認識と経口認識なんて言葉があるのかわかりませんが、なんの知識も持ち合わせていない赤ん坊はなんでも口に入れることで、母の乳を、父の手を、積み木やブロックを、そして大きくは世の中を知っていくのでしょう。

ネットが発達し、世の中の大抵の知識は共有できる時代です。賢人が一生をかけて導き出した言葉や解も、我々は指先一つで目にすることができます。本と伝言だけの頃と比べ、大量生産大量消費の経済と同じように知識の大セール、大安売りです。モノに溢れ、知識に溢れ。スマホがあれば、たとえどんなバカでも世界中の知識の引き出しを開けることができ、まるで自身が大賢者にでもなったかのような錯覚に陥ることは誰しもが経験済みだろうと思います。わからない単語も文法も計算も理論も、誰よりも賢いGoogle先生が教えてくれます。その場しのぎに都合のいい時代です。

親から口うるさく言われると、つい「わかってるよ!」なんて言いがちですが、大人になるにつれ、あのときの言葉がストンと、あるいは身にしみてわかるようになることが多々あると思います。経験の重みを実感する次第ですが、僕自身、見て覚えた知識と経験を経た知識と、その境が曖昧になる瞬間が少なくありません。

これは想像でしかないんですが、例えば昔の百姓はきっと、自身の生きるための術、農作に関する知識以外は持ち合わせていない、むしろ必要でなかったでしょう。時代は変わり、我々はたくさんの情報を得たがりますが、そのうち必要なものはどれだけあるでしょうか。そもそも、得た情報は本当に"得た"と言えるのでしょうか。

なんて自問自答したところで答えなどわからず、これまた経験を経ないと自覚に至らないのです。経口認識と言いましたが、理解するのは口に入れずとも容易いんです。しかし、口にして、咀嚼し、飲み込み、消化されてようやく血肉になるわけでして、ネットで、大学の講義で得た知識で武装した気になっている"博識な私"も、結局は赤ん坊のままで、わかった気になって口に入れない分赤ん坊にすらなれていないのかもしれません。

テレビでも雑誌のインタビューでも曲の歌詞でも、なんでこんな当たり前のことを、なんて思ってしまうことがよくあるんですが、よくよく考えてみりゃ僕は脳みそだけで理解した気になってるだけで、経験したからこそ彼らは発信してるんだと気付かされるんです。つまるところ、自分で食べてみないことには、その店の料理を知ることはないってことなんですけど、そうやってようやく自分なりの評価が自分らしく成り立つのかな、なんて。

というのも、なんだか最近頭でオタクしてる気がして、それは周りのあれこれを自身へ干渉させてることだったりするんですけど、よそありきの自分ほど不安定なもんもないな、と。なんかふわついてるんです最近。したほうがいいことは、本当にしたほうがいいのでしょうか。しなければいけないことは、実はしなくてもいいことだったりしないんですかね。

こないだDX劇団ハコムスを観まして、小ぶりでいい芝居だったと思うんですが、ふと演者と観劇者(僕)とに意識の差を感じまして。もちろん違って当然なんですが、あの子たちは、その程度はわかりませんが、食べて血肉にした上で表現してるのに、こっちは金払ってボケーっと眺めて能書き垂れて終わりなんて、なんか寂しいです。接触ありきの観劇って言われちゃったら愛想笑いくらいしかできないんですけど、観劇も読書と同じく立派な経験なら、体験して体現した彼女らとその差が歴然であろうとも、体力の使う経口という努力をしてもいいのかなと、それがなんとなく良いことのような気がしたんです。

具体的にと問われると案外困っちゃうんで情けない限りですけど、この公演でいえば、やっぱ一億円ってすげえなって感じでしょうか。

感情に紐付いての経口認識だと思うので、演目の面白さだったり演者さんの技量だったりに大いに影響されるとも思うんですが、彼女らの排泄物をもっとちゃんと食べようぜ!という心がけは無意味ではないと思います。

7,80人ほどの客入りで、こんくらいがハコムスにとっても、カルチャーズという箱にとってもちょうど良いかなとか思いましたが、人混みが嫌いでなければそんなこともないのかもしれないので、僕も鉄戸美桜さんのユニフォームに注目して一喜一憂していきたいと思います。