仏より飯

 

思い出したかのように書く。正直ブログの存在忘れてた。大好きだったのに、いやはや。

 

基本ネガティヴなことぶちまけて、はースッキリってするためのお便器だったけど、人転がすために超大作を書いたりしたこともあったなあと思い返すと心がウキウキしてくるので、今はもしかして退屈なんだなと少し侘しくなる。まあどんな風にでも生活をある程度楽しく過ごせちゃう器用貧乏な中途半端さは今も昔も変わらずで、結局とことん熱中するわけでもなく、どこまでもぬるい人間なわけですが、だからこそきっと今も昔もまあまあ楽しくてどこか退屈だという温度に大した差はなく、となると「今は退屈」ではなく「今も退屈」が正しいんだろう。でもまあ、美化された昔を懐かしむ浅ましさは、今が平和であることの証明だな。過去に戻りたいなんて思っちゃうと、あとは螺旋階段下るのみ。今が穏やかだからこうして健康的に昔を懐かしむことができる。ありがたや。

 

現状にある程度満足し続けて生きる、なんていうと上昇志向のない、気の抜けた野郎だって思われそうだし、それも間違いではないんかもしれんけど、満足とまでは言わずとも今の自分に納得しながら生きていくことはきっと大事で、納得するためには、冷静に自分を見続ける必要があるし、それは自分の意識が及ぶ範囲のことは自分の責任として認識することを自覚させてくれると思う。身体から半径30cm以内で起こることを自分のせいにすることが自由なのかな、とか。他人任せは多分生きづらい。その一時だけは楽かもしれんけど、結局めんどくせえしかったるいことのが多い。任せるほうも任せられるほうもしんどいし。かといって半径30cmの全責任を負うにはヒトは小さすぎるし、知ったこっちゃねえって投げやることも時には大切なんだろうけど、逃げ方としては、俺はせいぜいこんなもんだろって力抜くことがより賢いのかなと思う。どんなにダメダメでも、どんなにすごくても、俺はこんなもんよって言える余裕が欲しくて、それは納得してるからこそ言えるセリフで、だからこそ他人任せはできないなあと思うわけです。

 

たとえば、ダメダメな自分に納得してて、なおかつある程度満足しちゃってる奴と積極的に関わりたいとは思わないけど、できればもがいて欲しいけど、それを口にできるほど俺も立派じゃなくて、ダメダメな自分を擁護するため、もしくは自分がダメダメになったときの保険のため、まあ自分で納得できてるんならいいんじゃない?なんて笑顔で声掛けするのが俺だろう。下劣で鬼畜。でも他に答えも思いつかん。満足するかしないかはその人の尺度でしかはかれないし、他人がゴタゴタいう話じゃないと思うし。納得したその先どうしたいと思うか、が舵切りなわけで、納得は現在地を知ることでしかない。そりゃ納得かつ満足できてる今があれば一番良くて、でもそれはきっと best じゃなくて better なんだろうし、そこが身の丈だと割り切る余裕こそ幸せの秘訣なのかもしれんね。俺はダメダメなとこで停滞はしてたくねえけど、そこが満足の尺度の個人差なんだろう。ある程度満足できてなきゃそこ目指して舵切るだけ。

 

人生というストーリーも全て半径30cm以内での話だから、結局自分で責任持つしかなくて、人生に言い訳して死ぬような輩は他人任せの人生だったことになる。何回そうなりかけても、どこかのタイミングで冷静に自分を見て、その都度納得できればいい。満足してるかどうかは別として、自分が今自分であることに納得することは、心に余裕をつくってくれる。したら飯ももっとうまくなるだろうな。