ふぁっく平成27年

長い一年でした。しかし、いざ迎えてしまえばあっさりしたもんで、もう年の瀬です。

オタクをしない一年でした。やる気の出ない一年でした。行きたい時だけ行ってたので平均して満足度は高く、あまり文句も言わなかった一年でした。楽しかったのは音霊富士ソフト、アキラでした。今年好きだったのは野田さんと鉄戸さんでした。のんびりとやらせてもらいました。ありがとうございました。

オタクと仲良しな一年でした。挨拶する人が少し増えました。脅迫されました。やっぱりあまり仲良くなってませんでした。

ありがたいことに朝起きるようになりました。学校にたくさん行きました。単位がたくさんとれました。時間の短さに嘆いたりしました。その短い時間に感謝したりしました。忙しなく平凡な毎日でした。なかなか悪くない日常でした。いい一年でした。

明日から新しい一年です。新年とは、惰性で生きないためのきっかけです。継続、ではなく、一度切り、また一からです。変わらず同じことをするにしても、新たなことを始めるにしてもです。

慣れは期待を生みます。期待は視野を狭めます。ありがとうが減り、当たり前が増えます。ごめんなさいが減り、怒りが増えます。期待は理想という妄想をつくり、やがてそれへの執着を生みます。諦めができなくなります。自分自身以外のことをどうにかしようとします。どうにもなりません。悩みます。苦しみます。疲れます。余裕がなくなります。自分がどうにかできるのは唯一自分自身のことだけです。その如何が自ずと周りの何某に影響します。たとえどんなにうまくいかなくても自分に変えられるのは自分だけです。焦ったってしゃーないんだから、諦めてのんびりいきましょう。自分が変われば周りも変わるらしいですし。

来年はもっといい一年になります。僕は死ぬ時笑ってる人間です。今から笑顔の練習でもしときます。

さようなら。また会いましょう。良いお年をお迎えください。


ハコムス、消耗品からの脱却

僕らはなにに対しても毎度毎度 "良い" "悪い" で評価を下したがります。それはある種、自分だけの「生きる為の上手な選択マニュアル」に則って、と言えます。しかし、光と影的に、マニュアルがあればその例外もあり、よって僕たちは固定された枠の中で常に柔軟でなくてはなりません。マニュアルは中身が固定された時点で、その意味を成さなくなるのです。

普段僕たちは、無意識のうちに物事を良し悪しで判別してますが、大切なのは、欲しいか欲しくないか、なんです。事実、 "良くも悪くもない" だとなんだか宙ぶらりんで心地悪いしなあ、なんて思ったりして、別に欲しくはないものという意味で、それがどちらかと言うと "悪い" であることに気づかないことが多々あります。つまるところ、自分にとっての欲しい欲しくないの理由を語るというだけのことですから、いくら偉そうに語ろうが、また謙虚さのある厚かましさも、ある程度は許容されるべきではあると思います。

しかし、批評するという行為は、大概が、一人称からの目線と三人称からの目線と、二つの目線からの評価をもとになされます。自己評価視点と一般論的評価視点とをちゃんぽんして、これが我輩の思う○○、みたいな感じになるんです。そうなると、 "良い" けど "悪い" とか、またはその逆のパターンがあり得るようになるわけです。

今回の定期公演、僕は7月以来でしたので、どんなもんかとワクワクしてました。結論から言いますと、 "良かった" んです。


良い

まず、みんな歌めちゃくちゃ上達してました。あれはびっくりしました。ちょいちょい歌を聴く機会はありましたが、やっぱり定期公演でないと測れない部分はありまして、クソイベでもちゃんと歌おう!と言うのは簡単ですが、気持ちに紐付いての行動ですからね。それなりの意気込みだったりがないとなかなか。メンバーみんな上手くなってたんですが、特に鉄戸美桜さんですかね。もともとハコムスのなかでは上手い組のひとりではありますが、にしても伸びたなーと。鉄戸さんは、歌に表情つけるのが格段に良くなってまして、彼女はもともと無機質な歌声の質の持ち主なんですが、冷たく硬質な針金細工のような歌声から、透明感と温もりを感じる硝子細工のような歌声になってまして、どっちもそれぞれ別の魅力があるのはもちろんとして、しかしなんとも味わい深い良い歌い方するようになったなあ、と感心しきりでした。歌と歌声の関係性のイメージとしては、日の当たった硝子細工です。針金細工と違い、光を煌びやかに、柔らかく、豊かに広げます。思い返せば、ボイトレが始まってから一番伸びたのは鉄戸な気がしてまして、また、門前亜里ちゃんの卒業公演で、亜里ちゃんとふたりで歌ったあのときから、声により感情が乗るようになったと感じます。

あと阿部かれんさん。はっきり言って、加入時はふざけてんのか舐めてんのかどっちかだろうなと思うようなパフォーマンスしてましたが、まあさすがに半年も経つとまともになってくるもんですね。

小松もかさんも、常になんとなく平均点以上的な安定感は相変わらず健在だったのですが、その点数が65点から70点、75点と成長していってる気がしまして、小松らしくもパフォーマンスリーダーという肩書きを持つその意味を理解した次第です。

また、今回聴いた曲全部が僕にとって初披露でしたが、好きな感じの曲ばかりでして、運営の曲へのセンスは僕と相性いいんだよなあ、とかなんとか。ハコムスの秋冬は去年今年とミドルテンポのいい曲が多くて好きです。

トークも安定感がありまして、鉄戸さん中心に菅沼さんにしろ内山さんにしろ小松さんにしろ、キャラ立てもよく、退屈しませんでした。

総括して、ああ落ち着くなって感じですかね。ハコムスを感じる公演でした。


悪い

こう書くとやっぱり偉そうになってしまい、気が引けます。しかし、なんとも精度が低かったように感じたのも事実です。ちょっとしたことなんですけどね。体調管理だったり、歌詞間違えだったり、まあ僕はミス自体特に気にならないタイプなんで別にどうでもいいんですが。やる気のなさがみえてそれがミスに繋がると金返せとなりますが、ちゃんとやろうというのはちゃんと伝わってましたし。ただ、3か月振りに定期公演をみて、特に新たな発見がないというのは、ポジティブにも捉えられますが、もちろんネガティブにも捉えられます。はっきり言って新たな挑戦がないと新たな発見などなく、やってることの小手先は変わってようが、大まかにいつも通りやらせてるわけでして、ほぼ運営の企画の問題かとも思います。毎回新曲披露なんてすごい労力使うことだと思いますが、その挑戦は毎回同じ結果と成果を生むわけで、とても有意義ではあると思いますが、変化があるわけではなく、よっていつも通りの公演という印象を受けるのは自明でしょう。先ほど、精度が低いと言いましたが、ここ最近ハコムスメンバー忙し過ぎます。忙しい=仕事があるでいいことだと思いますけど、大人がある程度コントロールしてあげるべきところでしょう。ある一定以上忙しくなれば余裕がなくなり、それぞれの精度も落ちます。特に、まだ子供なんですから、毎日学校もあって、宿題もあって、友達とも遊びたいでしょうし、日常の豊かさなくして仕事の豊かさはないと思うんですがね。オタクは軽々しくそれらを犠牲にしてという言葉を好みますが、何様でしょうか。死ね、と言っておきましょう。運営がハコムスの為を考えるのは、それが自分たちのために直結しますから当然として、それがメンバーのために直結するかと言われたら、少し難しいように思います。程度の問題なのでさじ加減は間違いなく難しいですが、あれもこれも手を出せばいいというものではなく、それこそ個人の仕事があるならアイドルの仕事に多少配慮がなされるべきでしょう。あれもこれもやらせまくって忙しい毎日を過ごさせた結果、得たものが多かったという事実を言わせるのは簡単ですが、どうもそれ以上に失ったもののほうが多いように感じます。そこのバランス感覚を運営が管理せずには誰も管理できませんので、新たな発見が欲しいなら、取材に撮影に舞台に稽古に新曲振り付けにレッスンにボイトレに劇団ハコムスに定期公演に対バンにレコーディングにリリイベに、彼女らを消耗品として使うのはもったいないと思います。成長するのを間近でみれば、やらせたいことが増えるのはわかりますが、なによりも考えないといけないのは彼女らの体力や精神面でして、追い込めばそれを乗り越え成長だなんて、単細胞が喜びそうなアニメ根性を押し付けていたらすぐに限界がくるでしょう。ここぞというときの一定期間の無理があとあと大きな利益になることは間違いなくありますが、だらだらと長期間これを続けても疲弊してく一方でして、それはCDを無理に積み続けるオタク、それを売る側の運営が、誰よりも身を以て知ってることだと思います。もしそれを多少苦に感じなくなったとしても、それは感覚が麻痺したに過ぎず、負担が軽くなったわけではありませんから。ひとつ何かをやらせるなら、何かひとつを諦める。それは必ず、増えるのが仕事なら諦めるのも仕事でなければならなく、私生活と仕事のそれぞれの持つパイは一定でなければならないと思います。

余裕のなさは、ステージでかなり強くみえてくるのです。


結語

一番おおっと思ったのが、鉄戸さんが喉の調子の悪い内山さんのパートでフォローに入ったところでして、これぞ "悪くも良い" 例のひとつであり、まあそういう機転が利くようになったという点でも彼女をリーダーにしたのは英断だったんでしょうし、責任感からくる成長も感じられているのは事実です。しかし、やっぱり常に負担のことを考えないといけませんし、大人が思ってるより丁寧にケアしないと案外うわべまでしか届かなかったりするもんだと思うんです。ババアが化粧水やらにクソほど金使って結果シワ増やしてるのはなかなか滑稽ですが、やはり根底の食生活やら運動、睡眠などの生活習慣を大切にしてなんぼでしょう。

心の余裕がいつでもどこでも "良い" 結果を生みます。それは本人にとっても、周りにとっても "良い" 影響を及ぼし、結果 "良い" 評価の連鎖がおきます。心の余裕とはすなわち時間の余裕、お金の余裕でもあります。自由な時間、自由なお金が適度にあれば、人は堕落することも逼迫することもなく、楽に人間関係を全うし、私生活においても仕事においても有意義を見出せるのではないでしょうか。

週4仕事、週3お休み。こんなもんでどうでしょう。きっと、欲しい結果を誰もがそれぞれ享受できるようになると思います。




DX劇団ハコムス観たぽーん、面白かったぽーん

視覚認識と経口認識なんて言葉があるのかわかりませんが、なんの知識も持ち合わせていない赤ん坊はなんでも口に入れることで、母の乳を、父の手を、積み木やブロックを、そして大きくは世の中を知っていくのでしょう。

ネットが発達し、世の中の大抵の知識は共有できる時代です。賢人が一生をかけて導き出した言葉や解も、我々は指先一つで目にすることができます。本と伝言だけの頃と比べ、大量生産大量消費の経済と同じように知識の大セール、大安売りです。モノに溢れ、知識に溢れ。スマホがあれば、たとえどんなバカでも世界中の知識の引き出しを開けることができ、まるで自身が大賢者にでもなったかのような錯覚に陥ることは誰しもが経験済みだろうと思います。わからない単語も文法も計算も理論も、誰よりも賢いGoogle先生が教えてくれます。その場しのぎに都合のいい時代です。

親から口うるさく言われると、つい「わかってるよ!」なんて言いがちですが、大人になるにつれ、あのときの言葉がストンと、あるいは身にしみてわかるようになることが多々あると思います。経験の重みを実感する次第ですが、僕自身、見て覚えた知識と経験を経た知識と、その境が曖昧になる瞬間が少なくありません。

これは想像でしかないんですが、例えば昔の百姓はきっと、自身の生きるための術、農作に関する知識以外は持ち合わせていない、むしろ必要でなかったでしょう。時代は変わり、我々はたくさんの情報を得たがりますが、そのうち必要なものはどれだけあるでしょうか。そもそも、得た情報は本当に"得た"と言えるのでしょうか。

なんて自問自答したところで答えなどわからず、これまた経験を経ないと自覚に至らないのです。経口認識と言いましたが、理解するのは口に入れずとも容易いんです。しかし、口にして、咀嚼し、飲み込み、消化されてようやく血肉になるわけでして、ネットで、大学の講義で得た知識で武装した気になっている"博識な私"も、結局は赤ん坊のままで、わかった気になって口に入れない分赤ん坊にすらなれていないのかもしれません。

テレビでも雑誌のインタビューでも曲の歌詞でも、なんでこんな当たり前のことを、なんて思ってしまうことがよくあるんですが、よくよく考えてみりゃ僕は脳みそだけで理解した気になってるだけで、経験したからこそ彼らは発信してるんだと気付かされるんです。つまるところ、自分で食べてみないことには、その店の料理を知ることはないってことなんですけど、そうやってようやく自分なりの評価が自分らしく成り立つのかな、なんて。

というのも、なんだか最近頭でオタクしてる気がして、それは周りのあれこれを自身へ干渉させてることだったりするんですけど、よそありきの自分ほど不安定なもんもないな、と。なんかふわついてるんです最近。したほうがいいことは、本当にしたほうがいいのでしょうか。しなければいけないことは、実はしなくてもいいことだったりしないんですかね。

こないだDX劇団ハコムスを観まして、小ぶりでいい芝居だったと思うんですが、ふと演者と観劇者(僕)とに意識の差を感じまして。もちろん違って当然なんですが、あの子たちは、その程度はわかりませんが、食べて血肉にした上で表現してるのに、こっちは金払ってボケーっと眺めて能書き垂れて終わりなんて、なんか寂しいです。接触ありきの観劇って言われちゃったら愛想笑いくらいしかできないんですけど、観劇も読書と同じく立派な経験なら、体験して体現した彼女らとその差が歴然であろうとも、体力の使う経口という努力をしてもいいのかなと、それがなんとなく良いことのような気がしたんです。

具体的にと問われると案外困っちゃうんで情けない限りですけど、この公演でいえば、やっぱ一億円ってすげえなって感じでしょうか。

感情に紐付いての経口認識だと思うので、演目の面白さだったり演者さんの技量だったりに大いに影響されるとも思うんですが、彼女らの排泄物をもっとちゃんと食べようぜ!という心がけは無意味ではないと思います。

7,80人ほどの客入りで、こんくらいがハコムスにとっても、カルチャーズという箱にとってもちょうど良いかなとか思いましたが、人混みが嫌いでなければそんなこともないのかもしれないので、僕も鉄戸美桜さんのユニフォームに注目して一喜一憂していきたいと思います。




11月の"さんみゅ〜でいいじゃん"が全然いいじゃんじゃない件




決断自体に良し悪しがなくとも、当事者でない僕らは、予想や覚悟の有無に関係なく現実に突き放されるわけでして、どうしようもできないこの距離感に改めて寂しさを感じてます。

去年は京極友香さん、今年は山内遥さん、では来年はどなたでしょうか。契約更新の時期に合わせるとこの頃合での発表となるのは致し方ないようでして、おめでたいことこの上ない僕の誕生月に随分とネガティヴな印象を植えつけやがってくれまして、憤懣やるかたない思いです。

冗談はさておき、なんとなく、ワンマン終わったくらいからそんな雰囲気を醸し出していたように感じてまして、仲間内で、ありゃやめるなあ、京極友香さんと同じ時期だろうなあ、などと話してましたので、マメに現場へ通ってる皆さんはよりその勘が働いていたことでしょう。だからこそのTLでの切なさの蔓延だと思います。ちゃんとしたオタクがちゃんとオタクしていたなら、と考えてみたところで的外れな気がしますし、なんにせよ結局去る背中を見つめながら黙って手を振るか敬礼するくらいのことしかできないのです。

冒頭で良し悪し、と言いましたが、結果(将来)がどうなろうと、この決断はそれが下された時点で「その時点の彼女にとって」最善であることは自明です。発表に至るまで多くの大人が関わってるでしょうから、ある程度今後の見通しもたっていると信じます。

この発表によって、オタクのどこか上の空な切なさがまず第一になら、その後続くのが戦力としての惜しさ、グループ編成としての難しさなどでして、個人的には、彼女の脱退によって歌の上手さにおいてのメンバー間格差が歴然としてしまう、よもや昔のAAA形式への進化があるかも、なんて無粋な心配をしてしまうのです。

メンバー間での立ち位置がどうであったかは推察するに留まりますが、彼女は歌がうまく、またダンスも印象的でして、少なくともパフォーマンス面でさんみゅ〜を支えていたことは確かでしょう。なかなかこの穴はデカく、歌の上手い2人(新原聖生さん、西園みすずさん)とその他との間にいた彼女が抜けるということは、先に昔のAAAと形容したように、歌うまコンビにグループの核である木下綾菜さんを加えたメインボーカル3人とその他になっちゃうのかな的な懸念がないわけではないですし、果たしてそれが本当に懸念なのかと問われると、案外……なんて考えちゃうわけでして、やっぱり彼女の穴はデカいのです。みんなどんどん歌うまくなってますし、底上げがなされてるのはいいことですが、その分上の2人もうまくなっているわけで、その差を縮めることはなかなか難しいのです。そこらへんをぼやーっとさせてたのが彼女で、やっぱり山内遥さんはさんみゅ〜にとって必要な存在であったと考えられるわけです。

なんてことは全部どうでもいいことです。別れの際は、一にも二にもクソにも、なにをとっても想起と懐古に尽きるのです。

お別れの言葉を告げに足を運ぶ、この不毛な感覚、葬式と同じで、残される側の自己満。だからこそ、自分のためにもそれぞれ納得できる思い思いの「さようなら」を告げに行かなければと掻き立てられるのでしょう。

とりあえず、来年からは11月に限って「さんみゅ〜じゃよくないからやめるんじゃん」に変更して頂けますと不幸中の幸いです。



マッチ売りの少女『ハコムス編』クラウドファンディングの巻




運営(お父さん)

味を占めたのでしょう。また、です。メンバーに釣り餌としての価値しか見出していませんので、そういった意味ではメンバーの良さを最大限まで引き出す名案かと存じます。リスクをとらずにリターンを得られるなんて、こんないい手使わずにいられませんもの。メンバーに接待させるだけで金が欲しいだけ降ってくるわけですから、彼らにとってオタク様とは財布ですらなく、打ち出の小槌です。僕もカルチャーズかボックスで働きたいです。



怖いお父さんに脅され、売り切るまでお家に帰れないの……と道行く人々の同情を引く、かわいそうな女の子たちです。一発ヤらせてくれたら5万円分買うよハアハアってのがオタクでして、救いようがありません。かわいそうに。早く解散するといいね。


オタク(買春おじさん)

美少女とセックスしたいから、にちっぽけな脳みそ占領されて、なにも思考できなくなってます。救いたくないですね。自分たちは年端もいかない女の子を堪能できて、お父さんはその金で毎日叙々苑食えるなんてWin-Winですね。天はなぜオタクに知能を授けなかったのでしょうか。アーメン。


そうこう言ってる間にも目標金額の半分いってまして、しょうもないですね。マッチ売りの少女は物語の最後に死にますから、是非とも運営には早急に代わりの金稼ぎの道具を用意してもらい、オタクにも札束抱えて鼻息荒く待っていてもらえれば、ハッピーライフかと存じます。





アイドル甲子園シアター「AKIRA」の打ち上げイベントでオタクが惨めにも詐欺られた話

ただただ脱力してます。しばらく引きずりそうです。渋谷の地下というシチュエーションにぴったりな、まるでゴミ溜めでうんこしたようなイベントでした。

うんこの概要

①開場20:00、開演20:30の予定が、開場20:10、開演21:00に。

時間を過ぎても入場させてもらえず、渋谷の街中で好奇の目に晒され肩をすぼめるオタクたち。それでも10分間耐え抜き、ようやく入場が始まったことでオタクに笑顔がみえた。入口でチケットをもぎってるスタッフから「開演時間、10分押して40分からになります!」の声。よくあること、と気にとめないオタクたち。入場するとステージ、フロアに椅子が並べられており、トークイベント以外を期待していた人たちから落胆の声があがる。BGMと、発情期の猿の鳴き声と、オタクの談笑する声だけが聞こえるフロア。時計は21:00を示している。BGMの音量が大きくなった……。

……は?いや待てよ?40分からじゃねーの?なんのアナウンスもなかったよ?え?

てな感じでした。お知らせもなく、了承も求めず、謝罪もなく、補填もなく、もとより21:00開演であったかのように進行していく様をみて拍手できる人間が全く理解できず、俺の心が狭いのかなと思おうとしましたが、多分客の大多数が馬鹿なんだろうという結論に至りました。鉄戸さんが15歳なので、イベントは22:00きっかりに終演を迎えまして、公演時間は約1時間だったわけです。もとから1時間の予定だったんだよ!とおっしゃる方がいるかもしれませんが、本来流す予定だった初稽古の様子を撮影した20分ほどの動画(演出・佐藤さん談)を鑑賞する時間が全くなかったので、お察しするところであります。佐藤さんは、機材の具合で流せるかわからないともおっしゃってましたが、公演終盤、トーク中に音声も含めちゃんと流れてましたので、鑑賞時間がとれなかったことの原因を、開演の遅延以外に求めるのは無理があるでしょう。そもそも舞台の千秋楽が17:00開演でして、公演時間が1時間半ほどで18:30、公開ダメだしと接触を済ませると20:00は過ぎます。そこから移動の準備して、あれこれ挨拶済ませて、よし移動!となったところで、到着してからも準備やら打ち合わせがあるでしょうし、開演に間に合わないことは十分に予想できると思うんですがね。そもそもの時間設定がおかしかったというか、ただただ見通しが甘いの一言です。大体こっちは金払って契約完了してんだから、てめーらの都合なんてしらねーよってのが本来あるべき姿でして、せめてそのことについてなんかしらのアクションが欲しかったところであります。オタクが舐められてる話、で済ませるのは違いますよ。オタクが詐欺られた話です。

②打ち上げと表記していたにもかかわらず、舞台を観に来た人のためのものでないイベント内容。

舞台を観た人が全員passcodeのオタクであると勘違いした話なら、運営が全員キチガイだったで話は終わりなんですが、そうなんでしょうか。なぜ急遽passcodeのライブを行うことが発表されたのでしょうか。"チケットを捌きたい>舞台の打ち上げとしてきているpasscodeのオタク以外の人への配慮"という構図は実に愉快でして、1時間の内、約15分がライブに当てられましたが、なにがメインかわからなくなり、そうなると僕は一体なにに3000円払ったんでしょうか。打ち上げってなんでしょうか。ライブを観に来た人が滾ってるのはまあ仕方のないことでして、やたらめったらやかましいトークイベントでしたが、この状況でどう楽しめとおっしゃるのでしょうか。笑顔の演者たちにすら苛立ちを覚えました。確かに前もって内容は明記されてませんでしたが、当然、だからと言ってなにをしてもいいわけでなく、"打ち上げ"という文言に連想されるものの範疇でなければ、焼きそば買ったらゴキブリ入ってたようなもんです。

(番外)客の一部が発達障害で構成されていた事実。

ガヤは百歩譲って構わんのですがね。トーク中にデカい声でベラベラ喋っていた方々はきっと幼稚園児なんだろうと振り返ると、いい歳いってまして、こういう結論です。揶揄ではありません、事実です。差別ではありません、区別です。

結語

まあそんなこんな詐欺られて悲しいなって話でした。受け入れることばかりが大人じゃねーぞバカオタクども。

アイドル甲子園シアター旗揚げ公演「AKIRA」


語るだけ野暮といいますか、うまいこと言葉が出てきません。まあそういうことなんでしょう。一言に "良かった" 。

アイドルという形容詞に対するジレンマだったり、観劇に際してスタンスを決めようとする愚かさだったり、批評を作りながら観劇する虚しさだったり、公演中にいろいろ捨てつつ観れたかなと。ごちゃごちゃ細かいこというのは演出のおっちゃんとその他関係者で十分でして、楽しかったエグかったくらいしか残りカスとして心にないんですけど、朗らかな場面ではこちらも笑顔で、悲痛な場面ではこちらも顔を歪め、イラつく場面ではこちらも拳握って、感情をぶんぶんと振り回され、観てるだけでヘトヘトになった一時間半でした。終演後、とてつもない脱力感に襲われ、ようやく息が出来る感覚でして、その濃さゆえ長かったなあと実感し、どれと振り返ってみればその濃さゆえ短かったなあと想起する、そんな同居し得る矛盾みたいなのがうまいこと僕の感情を表現、証明してくれてると思います。

公開ダメだしはより専門的に公演を振り返るやつでして、僕の知らない目線からの評価が聞けるので新鮮でしたし、ここで演出のおっちゃんの言葉にうんうんと頷きたいが為に構えて舞台を観る恥ずかしさを理解し、どーせおっちゃんが専門的な批評を後々聞かせてくれんならオラはただなんとなく観るべってのがお利口かと思います。面白いおっちゃんでした。演出に関して印象深いのは、メタ発言をうまいこと使っていて、もともと狭く近い環境をさらに、みたいな効果だったり、こちらの感情の切り替えを幇助する意味合いだったり、まああのおっちゃんの本当の意図は知りませんけどね。

アイドル舞台だと思わないでください、の真意は、そこらのアイドル舞台と一緒にされたくない、でしょうけど、受け取り方としては、そもそもそんな枠ごとに見方を変えること自体ナンセンスだよね、が正しいかと思います。

映画祭の運営なんてやめて、舞台の祭典でも作りたいです。