卒業の消化

なんだか頑張れない一週間も終わり、また地獄の15コマを消化する日々が始まるかと思うと、毎日カルボナーラ食わされるような思いですが、時間があるとアイドルのことを考えてしまうのはオタクのサガなのでしょうか。

 
ここ最近やたらと"卒業"のふた文字を目にすることが多く、これが正しくアイドル業界の新陳代謝となっているのか、それとも単なる老化現象なのか不確かではあるんですが、業界そのものに興味のない僕のような人間にとっては星屑の中のいくつかが消えたに過ぎず、しかしスマイレージ福田花音ちゃんの卒業はなかなかにしみじみとするところがありました。
 
もう何年前になるのか自ら進んで考えたくはならないほどには時が経ってしまい、"スキちゃん"で起こった革命すらも今や何億光年も遠くに感じますが、やはり特別であることには変わりなく、となると"特別"という言葉は"好き"という感情としっかり差別化されているんだなと実感するところであり、また、僕にとっての星屑の中の一つもまた別のところでは確実に太陽であったのだろうとセンチメンタルを隠せません。
 
あえて"スマイレージの"と表記したところにも僕の過去に対する固執が表れており、まあこれは僕に限らず男とは皆女々しい生き物であろうと、35億の表向きの否定を甘んじて受け入れるのです。
 
先日、ハコイリムスメの門前亜里ちゃんの卒業発表があり、オタクはオタクなりにそのカルボナーラを消化しようと格闘してる真っ最中であろうと思います。
 
かく言う僕も消化の真っ只中でして、しかしこればっかりはウンコとして排出されるのを待つほかないわけです。
 
しかし、時の解決力に委ねるだけのオタクなどオタクの名を語るに足らず、やはり胃もたれに苦しみながらもなんとかかんとかしようとするのがオタクらしいとも思うのです。
 
亜里ちゃんの卒業に際して思い返されるのは、ハコムスは女優志望の女の子たちの集まりであるということです。となると、亜里ちゃんは1抜けしたということでしょうし、デパートの特設画廊から美術館への昇格を目指すということでしょう。
 
陥りがちなマインドの一つとして、メンバーよりオタクの方がそのアイドルという入れ物に固執することが挙げられますが、記憶をたどり彼女らのMCを思い出せば出すほどそれらは「私たちは卒業するためにアイドルをやっています」と聞こえ、これを表立って口にできることが他のアイドルと違うところなんだろうなと考えられるのです。
 
卒業後も芸能活動を続けるのか、続けるならばその芸能活動とはどのようなものか、と卒業に対するネガティヴな印象を植え付けるに十分な心配事がハコムスには無いに等しく、卒業後の未来がある程度予測できるのは大きな利点でしょう。
 
そうすると、オタクもアイドルに合わせたマインドであることが重要であろうと思うのですが、ふと「オタクするのってこんなめんどくさいっけ」と本末転倒な疑問が浮かび、ああこれも距離感の近さからの弊害の一つかと、アイドルとの人間関係としてオタクをしていたのかと頭が痛くなります。
 
これまでの話の通りなら、"手を叩いて卒業を祝う"が正解なんだろうとの予想も容易く、しかしそうもいかないところに愛という固執が見え隠れし、その対象が亜里ちゃんへのものなのか、ハコムスへのものなのか、確信の持てないままその日を迎えるのでしょう。
 
一にも二にも会えなくなるのが嫌だ、という思いがオタクの心を支配してる今、その胃のむかつきを抑える漢方薬もこの世には未だないので、ハコムスが"個人の活動が延いてはグループの"というマインドではなく、"グループとしての活動が延いては個人の"というマインドであることを念頭に、もう少し消化運動を頑張ろうと思います。
 

ハコムスの魅力

とか書くと一気にアホっぽくなるのは承知のうえでこのタイトルなんですけど、なんか昔聞いた萎びたおっさんオタクの懐かしんでたのか嘆いていたのかようわからん呟きをふと思い出したんです。

 
"昔のアイドルには箔があった。眺めることすら躊躇するような高級ジュエリー店のショーウィンドウだったんだ。"
 
非日常感というか特別感というか別世界というか、天上界的な重みのある価値と距離が昔のアイドルにはあったんだろうなと想像してるんですけど、当時俺は「おっさんくせーな」くらいにしか思ってませんで、今ようやくその言葉に向き合わざるを得ない自分を皮肉に思うのです。
 
元は俺だってアイドルと話すたびに脇汗かいてテンパって非日常を味わってたオタクですけど、日常的にそれを繰り返すことでその行為の価値自体も日常化していきまして、いつしかアイドル自体にも日常感を覚えるようになったのは俺だけじゃないはずです。日常化したからこそ抜け出せないってなもんで、慣習化とも中毒とも言えるかもしれません。
 
今のアイドルは距離が近い分慣れも早くなりますし、その距離の近さはおっさんの言うところの箔を捨てることと同義で、昔が"高級ジュエリーショップ"なら、今はいいとこ"デパ地下"といったところでしょうか。少しだけ足を踏み入れづらくて色んなもの売ってて。
 
そんななか彗星の如く現れたハコムスこと"百貨店の画廊"。美術品を商品として見るという行為は、物理的な距離の近さだけでなく精神的により間近で見ることができるということでありまして、浮世離れした慣れ親しみのない絵画の存在そのものと、未来の教科書に載る予定の画家に非日常、言い換えて魅力を感じるのです。
 
値段など高くて構わんのです。そもそも美術館で眺めるものという認識ですから、商品として消費者目線で絵画を見れることに意味があり、買えるかどうかなど二の次。訳のわからない絵も百貨店の画廊ならではで逆に面白いと思えます。
 
俺が最近オタクしてないことになんとか理由付けしようとしてますが、まあきっとそんな大した理由もなく、よってそれを踏まえた現状のハコムス批判などしようもないんですが、"訳わかんない高い絵を百貨店で売る"という低俗か高尚かようわからん、でも確実に面白いと言えるその行為が、商売としての運命か利益追求により次第に研ぎ澄まされ無駄が削がれ"デパ地下化"、言い換えて日常に寄り添っていく様は悲しいやら寂しいやら。
 
女優業という天上界的な重みと距離と価値のある絵画を、アイドルという百貨店、デパートで商品として取り扱う。そこのバランスが実に面白いわけで、百貨店の画廊好きは誰もデパ地下のような商品陳列の美しさや手の届きやすさ、わかりやすさなど求めていないはずです。きっと。多分。恐らくは。
 
デパ地下に行き慣れたことで百貨店そのものへの抵抗感はクリアしてますので、上部階の催事コーナーに特設された画廊へのアクセスは容易で、そこには非日常的な面白さがあるのですから、やはり客に媚びることなく、いや、金に媚びることなく、独自路線をひた走って欲しいものです。
 
語弊を恐れず失礼なことを言いますが、マンネリ化しつつあるライブを月に何本もやって小銭稼ぎするくらいなら、アイドルであることの証明になる程度のライブ本数に個人の仕事、俺の願望としては訳のわからん舞台でも観せてくれたら最高だなと思います。
 
女優志望なのに演技レッスンよりライブレッスンのが多いってなんかよくわかんないですし、そこもやっぱりバランスが大事だろうと思います。アイドルやりたいのか女優やりたいのかどっちもやりたいのか知りませんが、わざわざ大衆に寄っていくなよもったいないと思ってしまう、俺の身勝手な価値観によるハコムスの魅力でした。
 
明日もきっとハコムスのみんなは変わらず可愛いから、騙されないよう。
 
 
 
 

ハコムス酷すぎ問題

 

 

暗黙の了解だとか、誰も触れられずにいるだとか、そのままにしておくのが気持ち悪く感じるのです。

 
何も考えずに、換言すれば秋葉原まで足を運ぶ理由以上の期待を持たずにハコムス、そしてさんみゅ〜のカルチャーズ公演に行きまして、月1のノルマを早々に達成したんですけど、何も考えずアホみたいに観てても思うことは色々ありましてですね。年末に今日と同じようにハコムス→さんみゅ〜を経験したときとはまた違った印象でした。
 
そもそも新メンバーの阿部かれんちゃんが入ってのライブを2度しか拝見してませんからこう言うのもなんですけど、お遊戯会に金を払ってる感覚ですね。かといって以前が素晴らしくアイドルのライブだったかというとそうではないんですが、運営の言うところの第1章では、ルックス、接触、楽曲のレベルの高さに加え、あくまで女優志望という逃げ道があったため、パフォーマンスの質にはある程度目を瞑ることができたわけです。まあその温度感が僕には心地よかったんですけどね。
 
そんな彼女らも段々とレベルがあがっていきまして、上から目線で恐縮ですが見れるようになっていった矢先の第2章ですよ。なんかいろいろ変わりましたけど、ちゃんとアイドルやっていきたいのかなーって印象を覚える変更、転向内容でして、なのにライブは退化するというチグハグ感には笑いました。
 
阿部さんに全ての責がというわけではなく、ただただ圧倒的な時間不足、運営の甘えが見え見えで清々しさすら覚えます。メンバーに対する甘え。オタクに対する甘え。
 
メンバーに対しては上下関係にありますし、オタクに至っては現状褒め褒め状態にあるように思いますので、なんだ結局仕方ないのかと泣きたくなるのですが、こちとら金払ってる以上は不快にならん程度のもんは観せてもらいたいですし、それを、結果を見るに圧倒的に足りなかった時間のなかでやれと言われても無理は無理だったわけで、今日のステージないしは先月の定期のステージになるのです。もちろん本人のヤル気にも多少の問題があったんでしょうけどね。
 
芸能界がどんなに厳しい世界か知りませんが、興行なら、金を払うだけの最低限の期待を裏切らないようにしてほしいものです。運営は監督ですから。選手を満足に育てもせず試合に出して負けなんてなかなかに舐めた話です。
 
阿部さんだけの話でなく、拙さの伝染がありまして、なんだかみんな歌下手になりましたかね。珠希くらいしかまともに聴けんかったです。ボイトレの先生の影響かもしれませんから下手には口出しできませんが。
 
そんな今日のライブもTLを見る限り皆さん楽しかったようでして、思い返せば、なるほど僕も楽しかったみたいです。先にお遊戯会と言いましたが、美少女のお遊戯会ですからね。まあそりゃつまらなくはないだろうと。そこらの地下アイドルのような顔面だったらコンニャク投げつけてました。
 

ついでですがこんなツイートがTLをざわつかせてまして、デジャヴです。まあ今回はしっかりと卒業脱退でしょうけど。ハコムスを辞めるってなると芸能界引退or女優業専念のどちらかでしょうから、まあ女優としての大成を夢見てる彼女らが踏み台のアイドルで躓くとは考えにくいというか考えたくありませんから、そうなると現状ある程度仕事もらってる人ですね。まあこれ以上絞っても無意味ですし野暮ですからやめときますが、個人的には諸々状況を鑑みれば1人しか思いつきません。不安煽ってごめんなさい。金払って湿っぽいの見せられるの嫌いですし月1のノルマ達成したんで結果は皆さんお聞かせください。

そのあとのさんみゅ〜ですが、ハコムスのあとだからか随分と立派に見えまして、これがアイドルかと感銘を受けてしまいました。まあかけてる時間が段違いですね。真実ちゃんがとても可愛く、にこやかに会場を去れました。ありがとうございました。

最近のハコムスはメンバーに余裕がなく、あくせくした雰囲気ばかり感じられ、そうなるとこっちも楽しむに楽しめませんから、また次金を落とすそのときは、運営もメンバーも何かに追われてるかのような焦りから解放されてることを祈ります。

 

一日観てるだけだったのになんか疲れたわ。

 

 

 

 

オタクにおける楽しみ方による剪定について

当然と思しきことばかり書いてきたつもりでして、今回も例に漏れず。野暮だとわかっているのですが、野暮なことほど興味が湧いてしまうものなのでしょうか。

 
つい先ほどまで中学校時代の友人と昔話に花を咲かせていまして、僕自身転勤族で広島と千葉を行ったり来たりの生活を送ってましたから、当時荒んでいたことも拍車かけあまり友人がおらず、今でも残ってくれているその数人はとても大切な存在になっています。彼らと過ごした2年余りは、バカといってはバカに失礼なほどバカな毎日だったと記憶しています。書けるものをいくつかあげると、好きな女の子のリコーダーを舐め散らかしてシコるヤツ、掃除機でシコるヤツ、情報の時間にエロサイトでシコるヤツ、京都への修学旅行で他校と喧嘩して正座し女子部屋に乗り込んで正座しエロ雑誌持ち込んでシコって正座し意図せず修行僧のような3日間を送ったヤツなどなど、頭の欠陥を疑うこともなく気づけば四面楚歌、周りが皆敵になっていたように思います。しかし、猿ほどの知恵もない当時の僕たちが不幸だったかと問われれば、社会的視点からみれば哀れではあったかもしれませんが、主観的にはとても楽しく充実した日々であったと胸を張って言えるのです。
 
このように、楽しみないしは楽しみ方、ここでいうところのバカな学生生活ないしは学生の楽しみ方とは実に自分勝手な価値観で出来てまして、例えば僕や友人らが共同生活のルールに則り青春を共有し謳歌したとしても、それもまた自分勝手なものなのです。和気藹々過ごしていたとして、それを良しとしない者がいてもなんら不思議ではありませんから。
 
屁理屈はここら辺にしておいて、また別の例え話を。
 
僕はこの頃からバイクが大好きでした。時には若さに任せハチャメチャな運転もしましたが、基本的には社会の秩序である常識に則りマナーのある運転を心掛けていました。それはとても楽しく充実した日々でした。
 
一方、僕の当時の友人にいわゆる暴走族として活動していたものが何名かいました。彼らは一般社会における社会的秩序ではなく、自分たちの中での社会的秩序に則ってそれなりに楽しんでいたのでしょう。
 
このふたつを比べると圧倒的に後者が非難されようものですが、そんなことは本人たちにとってもとうに自覚のある話ですので、今更どうこうと詰めていく気には到底なり得ません。話の焦点ですが、この二者の間に理解はあり得るのかということです。
 
冒頭で話した僕の昔話のように理性を飛ばし人間としての品性も品格もない行動をとると楽しい、というのもあながち間違いではないのかもしれませんが、ポイントはそこになく、その物事に対する心構えからして違うのでしょう。
 
バイクの例であるところの僕は、ある言い方をすれば「嗜み」として楽しんでいると言えます。趣味とあるように、趣を味わっているのです。しかし、暴走族の友人は、その暴走行為、犯罪行為に趣を感じているようにはさらさらみえず、どちらかというと「遊び」であったのだろうと思います。
 
微妙なニュアンスの違いでうまく伝わるか不安ですが、ここの違いは大きく、ツーリングサークルと暴走族は間違っても相容れることはありません。
 
アイドル現場の観客席をバスケットコートと見立てて考えるとわかりやすいのですが、「嗜み」勢は恐らくスポーツとしてのバスケットボールを楽しむでしょうし、一方「遊び」勢はあるいはバスケットボールでドッヂボールを始めるかもしれません。「嗜み」勢は体育の授業として現場に立っており、「遊び」勢は休憩時間として現場に立っていれば、そこに理解など生まれるはずもなく、お互いがお互いの自分勝手な価値観を押し付けたところで醜く不利益で不毛な争いが生まれるだけなのです。
 
しかし、このバスケットコートに求められるのはスポーツとしてのバスケットボールでして、それはアイドルという絶対的な存在がある限りほぼ揺るぎないのです。ですから当然「遊び」勢は猿並みの知恵もないバカ足りぬ脳なし軍団なわけですが、先ほどの通り話の焦点はそこではありませんので、結論として「平和のために永遠に努力する戦闘民族」のような矛盾を抱えつつ、多数であるどちらかが「楽しみ方」によってオタクを剪定し、美しい現場とやらを作り上げていくことこそ真理である、となるのです。
 
早く美しい現場にならねーかな。
 
 
 
 
 
 

夢見るブタ

突然変異で論理的思考を持つブタが生まれたとして、そのブタがイノシシの存在を知り、イノシシになりたいと願ったとしたら、柵を飛び越えられたら…柵をぶち破れたら…人を欺けたら…などなど目的達成のための手段、方法を探ると思う。しかし、数多ある可能性を躍起になって探しているようでは、その夢見るブタはいいとこ豚丼として美味しく召し上がられる運命であろう。

 
自分のオタク人生になんの疑問も持たず、ただただ生かされているだけの家畜は、おしなべて幸せである。もし何かを正しいと定めるのであれば、家畜として一生を終えることこそ正当であると言えるだろう。しかし、あなたは異を唱えた。イノシシへの道程を考えた時、夢を見ることができるかどうかが最大の難関であろう。折角夢を見たのだ。叶えようではないか。
 
さて、まず第一に、最も重要なことを忘れていては話にならない。その養豚場は高く厚い塀に囲まれていないだろうか。あなたは硬い鎖に繋がれてはいないだろうか。もしそうなら諦める他ない。ファッションに気を使うだとか、声を低くしてみるだとか、涙ぐましいほどの努力をしたところで、自分が相手のタイプでなければその塀を飛び越えることすら叶わない。それをなんとかする方法を求めている人が大半であろうが、こればっかりはどうにもならないのだ。いくらオタクとして頑張ってみたところで、いくら斜構して他のオタクとの差別化を図ったところで、好きになるという直感的なことをどうにかするのは無理な話で、私はどうにかなったぞ!と経験から物言う者も居ろうが、その人はただ単に元からどうにかなっていたに過ぎず、土俵に気づかずして上がっていようが、大事なのはその土俵に上がれているかどうかという事実だけなのだ。考えてもみてほしい。現実社会で、もしあなたが同級生を好きになったとしよう。あなたはアプローチしアタックをした。だが反応は芳しくなく、しかし諦めの悪いあなたはそんなことお構い無しにガンガン攻めて攻めて攻めまくるのだ。きっとあなたは学校の人気者になり、もしかするとオシャレな囚人服を纏うことができるかもしれない。ともすれば、攻め落とすケースもあるだろう。しかしそれは、熱意を鬱陶しく感じさせないだけの何かがあったわけで、やはり元々なんとかなっていたに過ぎないのだ。アイドルとオタクという間柄、オタクがどんなにアプローチしようがアタックしようが、金を落とすことにより身の安全は保障される。しかし、鈍感な人はまだ足りないまだ足りないと限度を超え猛攻撃を仕掛けるのだが、そんなあなたには冷静になって反応が芳しくない理由を今一度考えてみてほしい。ここで、そもそもオタクを好きになる数奇な者などいないと言い訳をし絶望するのなら、それは夢を見ているとは言えない。ただ憧れていると言う。そんな利口なあなたは、屠畜場送りとなるその日を首を長くして待っているといい。皮肉ではなく、幸せと安寧の日々がそこにはあるはずだ。
 
土俵に上がっていると自負するあなたは、数ある障害を乗り越えなければならない。それは、はっきりとこちらに好意を抱かせることであったり、アイドルの持つ良心との戦いであったり、運営の目であったり、オタクからの嫉妬であったり、数えていてはキリがない。それに、何よりこれらの障害は、アイドル一人一人それぞれに違ってくるのだ。だから、こんな仰々しい記事を書いておいて今更ではあるが、あなたが巧妙かつ強引に最良の選択ができることを祈る。無責任で申し訳ないのだが、正直、土俵に上がることも、上がってからも、ほとんどが相手次第であり、どうにもならないことを自分次第とポジティブに捉えるのは勝手だが、それならとっとと屠畜場行きのトラックに乗ったほうが幾分もマシであろうと思ってしまうのだ。
 
結論として、一にも二にも自分磨き、一緒に頑張ろうな。

ハコムス、アイドリング4000回転

乾燥機が動きを止めてくれるまで暇だし軽く。

 
そもそもハコムスを、あの曲のあそこの誰々があーだこーだと細かいところをオタク同士で侃侃諤諤、談論風発と批評し合うような見方してなくて、それこそ飯食い終わって談笑しながらだらだら観る月9みたいなもんでさ、身体は最前最中に居ようが心は気の抜けた茶の間にいるんだ。
 
好きになると詳しくなって次第に目も肥えていくわけで、目にしてきた数あるサンプルを参照に自分の中に適当な基準を作って、対象を感覚的ではなく数字的に分析し好き嫌いを判定する。悪かぁないけど、どこに豊かさがあってどこに貧しさがあるかなんて、血眼になって探しても見つかるのはシンプルな感覚に乗っかった細い理屈ばっかだし、そうやってるといつの間にか一つのライブという総体的な見方ができなくなって、断片的に注目するようになる。抽象的なことに目も耳も向けなくなり、具体的な良さに安心するようになる。
 
なんかいいよね。なんかだめだよね。
 
もうこれで伝わると思うんだ。納得できると思うんだ。だから茶の間気分で観れることをハコムスの良さの一つだと思ってた。
 
今日観て、やっぱハコムスはなんかいいよなーって毎度の如く思った。でももう茶の間では居られない気がしたんだ。
 
出来はどうであれ努力してんだなって、頑張ってんだなって節々に感じられて、それは大いに結構なんだけどね、アホな話、アイドルになっちゃったんだなって寂しくもあったんだ。
 
アイドルをなんとするかによって、前の一文の意味も大きく変わってくるのは承知してる。アイドルってさ、熱いじゃん。目標があって、その為に様々なものを犠牲にして、それをみてオタクは勇気をもらって、追体験しようと熱く応援する。その温度がさ、茶の間じゃない。温度差が生まれると、共有してた雰囲気すら感じ取れなくなる。やがてそれは違和感に変わり、終には嫌悪感へと変貌する。まだ温度差感じただけなのに大袈裟かもしれんがね。
 
これは誰が悪いとかの話ではなくて、運営もメンバーも活動に手応えを感じ始めたから熱量も上がってきたんだろうし、むしろそれは当然とも言えるんだ。とすれば、次回の定期で重大発表をすると小松が言ってたのも、恐らくは新メンバーやらオリジナル曲だろうと予想できる。脱退やら解散やらも否定はできんけど、新加入やらコンセプト変更の方が幾分も理に適ってると思うんだ。それを鑑みても、向こうは温度が上がっていってて、それはオタクにも同じ温度を求めることになるわけで、茶の間気分の俺には熱すぎるんだ。
 
オタクとして頑張って応援することに疲れ、引き合わせによってハコムスに流れてきた俺の勝手な欲求が満たされなくなったからといって、わがままで足を引っ張るように文句を垂れるのも筋違い。ぬるま湯に浸かりきった草臥れたオタクは、これからもぬるーくオタクしていくんだろうなって、他人事のように考えてるよ。
 
あなたはさながら坂道発進かのようなアイドリングの回転数で。
 
俺はとぼとぼ歩いて向かうよ。

アドルフに告ぐ

最近思うんです。マインドコントロールされてるんじゃないかって。

 
それは常識による作用、換言すれば"オタク"という言葉による支配的な自縄自縛です。
 
レールに沿っていくことが悪で、新たな道を切り開くのが善だと決めつけることのできるあなたは、きっと独善的ないい正義のヒーローになれるでしょう。
 
善悪、優劣ではなく単に選択肢としてこの二つをみたとき、アイドルの追っかけとして右倣えをしていては結果も右倣えのものになる可能性が高く、それとはまた別の解答を求める僕は必然的に別のやり方を模索しなければならないので、現状レールの上を走りながら周りをキョロキョロしてる感じですね。
 
あなたは人間ですか?と問われても、そうだと思いますと常識に当てはめて答えるのが正常ですから、あなたはオタクですか?と問われたら、そうだと思いますとしか言えないんですけど、ここに一度くらいは疑問を持ってもバチは当たらんだろうと。
 
何が言いたいかというと、"オタク"という言葉を使うことによってその言葉に対する印象の作り出す常識に暗示をかけられ、知らず知らずのうちに「オタク(アイドル好き)である自分は"オタク"(イメージ像)であるべき」と刷り込まれてるんじゃないかなって思ったんです。
 
例えば「繋がりたい」という考えを持っていても、この暗示にかかってりゃ"オタク"としての常識の範疇から逸しない答えしか出ないでしょうし、例えば応援って言葉一つとってみても、"オタク"としての応援が本当に最善の応援なのか真相は別にしても疑問にすら思わないのもなんだかなーと思うんです。
 
要するに、みんながみんなしてこの"オタク"という言葉に色んなたくさんの意味をつけすぎてるんじゃないのか、とこういうことです。
 
オタクの定義なんて知りませんし他人の決めたそれに興味湧かないんで勝手にやってくれって感じだし僕も勝手にやってるんですけど、広く「アイドル好きがオタク」だと考えたとき、それがアイドルという文化が好きでも、とあるアイドルグループが好きでも、とあるアイドルの子がアイドルとして好きでも、とあるアイドルの子が女の子として好きでも、なんでもいいんです。そこに幅を決めて線引きするほど野暮なこともないだろうと思いますし、先ほどの繋がりたいってのもアイドルの子が女の子として好きってオタクならそれもまたオタクらしいと言えます。それ以上もそれ以下もないのです。
 
とすれば、「"オタク"はアイドルに対して妄信的である」とするアレも、本質は「"オタク"は"オタク"に対して妄信的である」ってことなんじゃねーかなと思ったり。
 
"オタク"という言葉にこれでもかと付随されたたくさんのイメージからなるその意味に支配され、自らを縛り付け、「こうでなければならない」と半ば強迫観念のように生きているオタクが、他人にもその"オタク"というイメージで作られた枠をあてがって、強要し、叩く。だっさいですね、死んで欲しいです。
 
また、"人それぞれ"という言葉をオタクになってからよく耳にするようになったんですけど、そいつらの"人それぞれ"はオタクとしての常識のなかでの狭い狭い人それぞれでして、まあこういうこと言うと必ず「常識も知らずマナーも守れないクズめ」とか言ってくるゴミも一人二人いるんですけどね、社会の常識とお前らが勝手に作ったオタクの常識と、同系列で語るなキモいんだよってなもんですね。
 
兎にも角にも君の価値観を僕に押し付けないでね、とこういう了見なんです。
 
ももクロのオタクのことをモノノフと呼ぶ風潮ができて久しいですが、呼んでいるのは周りではなく自分たち。通称ではなく、自称なんですよアレ。そしてそのモノノフのモノノフに対するイメージによって作られたモノノフはこうあるべきというモノノフの常識によってモノノフが支配され束縛されていくのです。だから当時ももクロが好きだった頃、僕はモノノフ死ねと言い続けていましたし、ももクロに限らず今でもグループ特有のオタクの呼称を嫌います。ファミリーも結構ですが、勝手に家訓押し付けられたんじゃやってられんよ、と。ああいうのはアイドルが言うぶんには問題ないんです。オタクが言い始めるとおかしくなる。
 
飛べない鳥だって大空を羽ばたきたいんです。僕には助走つけて大きめのジャンプするだけで精一杯ですが、その夢を持てているうちは幸せなんですよ。内輪であーだこーだやってるぶんには文句も言いませんが、足掴むようなマネしたらてめえの目ん玉に糞してやるからな。